今昔2 (35)

  さて、放生池に向かわず、そのまま頂上の道を進むと、白壁に瓦屋根となり、建物の雰囲気が変わってくるのがわかる。左手に白壁が途切れた入り口のような所があり、中に入ると、そこは百メートル四方ほどの広場となっている。広場の北には、近代的なお寺の伽藍が見える。それは、地元民ならばよく知っている覚王山日泰寺である。

  日泰寺のことはWiki等を参照して頂くことにして、当時小学生の自分が知っていたことは、仏様の本当の遺骨(真舎利)があるお寺らしいということと、毎月21日に縁日(弘法さんと呼んでいた)があり、広場に多くの植木が置かれるということであった。そしてこの植木市が目当てで、兄や友人らとよく足を運んでいたのである。

  その弘法さんで不思議な体験をしたことがある。一通り植木市を見終わってぶらぶらしていると、一角にたむろしている白装束の男達が目についた。それは、今考えると、いわゆる修験者の出で立ちをした人達であった。年寄りはおらず、比較的若い男子四名ほどであり、近づいていくと、「見る?」と聞くのでうなづくと、興味深いデモンストレーションを見せてくれた。

  男性の一人が、ワイングラスの上部のような器の底にロウソクが入れられたものを取り出すと、火を付け、自分の目の前の砂利の上に置いた。その日は風の無い晴天で、ガラスの中の炎は、微動もせず、真っ直ぐ立っていた。その男性は、呼吸を整え、印のようなものを結び何かを唱えると、目前のガラスに、斜め上から、ゆっくりと拳を突き出したのである。すると器の中の炎は、拳の動きと比例するように小さくなり、ついには見えなくなった。そして、突き出した拳を引くと、炎が現れ大きくなり、元の状態に戻ったのである。いつの間にか自分以外にもギャラリーがおり、その現象を見ると「ほー」という歓声が上がったのを覚えている。

  次にその男性は広場にあった直径15センチ高さ10センチほどの石を、縄で十文字に結わえ、交点の先に輪っかを作ると、書道に使う半紙を巾1.5センチ長さ10センチほどの短冊にしたものを懐から取り出すと、その輪っかに通し、紙の端を合わせると自分に持たせ、真上にゆっくり引っ張るように言った。縄は半紙によって立ち上がっていたが、半紙は輪っかにかかる部分で何の抵抗もなく、石は微動だにすることもなくちぎれたのであった。

  新しい半紙を縄に通すと、前と同じように端を持った。男性は、先ほど同様印を結び何かを唱えると、自分に前のように紙を上に引っ張るように言った。すると今度は、縄と紙に支えられた石は持ち上がったのである。その時、件の男性が半紙に顔寄せ、「○○明王が支えていらっしゃる」(或いは、○○如来が支えていらっしゃる)というような事を言ったのが印象的であった。その状態は、30秒ほど続いたが、男性が顔を離し、区切るような動作すると、紙はちぎれ石は落下したのであった。小坊の自分は、何なんだろう、この状態を受け入れていいものだろうか という不思議な気持ちで一杯であった。その男性はというと、「おしまい」と言ってにっこり笑っていたのである。

  その日の弘法さんは、上の出来事で今でも記憶に残っている。日泰寺超党派の寺院であるので、様々な宗派、宗教関係者が参集すると思われる。弘法さんで立ち寄った修験者が、日頃山野で培った験力を、少し見せてくれたのではないかと現在では思っている。

  弘法さんの日は、植木ばかりでなく、山門から地下鉄覚王山駅方面に向かう参道に多くの店が出て賑わう。近隣には鬼まんじゅう芋けんぴの美味しい店もある。ちなみに放生池に至る坂にできたマンションに中学時代のクラスメートが住んでおり、一度だけ遊びにいったことがある。マンションのベランダからは、日泰寺全体を俯瞰することができ、本堂北東にある僧堂近傍に美しい日本庭園が有り、そこにサツキが鮮やかに咲いていたのを覚えている。

  明治前はざっくり、現在のJR中央線以西が、住宅地、商業地となる尾張藩の密集地であって、それ以東は、田畑や野原、湿地であった。そのような土地が、尾張丘陵の分枝として、猿投山から長久手へと西南西に伸びる丘陵の西端と出くわす所が、自分の小学生時代のフィールドオブドリームであったわけである。

(日泰寺 弘法さん)

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