読書 (83)

 在来線を乗り継いで行くと、同じ車両の人が、次の列車でも近くにいることがある。そのような人達が、目的地まで一緒かと思うと、そうでもなく、いつの間にか居なくなっているわけである。列車内で本を読んでいる人がいると、すぐ目が行く(勿論、どのような本を読んでいるのか気になるわけである)。文庫本が多いが、単行本の人も結構いる。中には、よくもまあ辞書みたいなぶ厚い本を読んでいるなと感心することもある(筋トレを兼ねているのかもしれない)。知らない作家だったり、気になるタイトルだと、後で調べて見たりする。そうして、面白い新進のミステリー作家などを見つけたりすることもある。

 

 その旅行きで乗車した最初の列車はそこそこの混み様で、自分も座席の通路側の角に掴まり立っていた。自分が角を持つ四人座席のもう一つ隣りの区画の通路側にその女性は座っていた。何かを読んでいるなと思ったものの、停車を重ねるにつれ、人混みで遮られ、それ以上意識することはなかった。やがて乗り継ぎの駅となり、頑張って移動し、次の列車では何とか座ることができた。そして、少し離れた所に先程の女性も座っていたのである、もちろん本を読みながら、

 それから一時間程、うつらうつらと列車は進み、次の乗り換え駅となった。目を覚まし、階段を昇っては降り、次の列車に飛び込んだが、今度はタッチの差で立つこととなった。荷物を棚に預け周囲を見渡すと、件の女性がすぐ裏側に座っていたのである。乗り継ぎの喧騒など全く意に介さぬ程すでに読書モードであったが、今度は近いので本の背も読める、いったい何を読んでいるのだろうと、文庫の背を読み取ると、それは「楡家の人びと」(北杜夫著)であった。

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 「楡家の人びと」といえば、日本の近代文学を代表する作品の一つである、そして面白い。その高校生か、ひょっとすると中学ぐらいの女性が読むには少し渋い、同小説に出会い、今それを楽しんでいる彼女を少し羨ましくも思ったわけである。同時に、彼女は今後も、面白き興味深き本を求めて、読書という大海を漕ぎ続けるであろう事が予想できた。

 読書は多様である。澁澤龍彦は友人、三島由紀夫の作品はすべて読んだそうであるが、自分の周囲にも新田次郎の作品はすべて読んだという人がいた。ハーマン・メルヴィルの作品を全て読もうと決意し、メルヴィル全集(国書刊行会 坂下昇訳)で、「タイピー」、「オムー」、「マーディ」ときてフェードアウトした人もいる(ちなみに自分も同全集を所持しているが、「バートルビー」を読んだだけである)。また、その時点で出版されているハヤカワ文庫SFはすべて読んだという人がいた(現在も続いているかは不明である)。

 研究者でもない限り、読書は手軽な楽しみということになるが、自分は、読書は精神調整薬でもあると考えている。薬というと少し大げさであるが、良き読書には、比較的長い期間、一種の幸福感と情緒の安定性をもたらす薬剤的効果があると考えているわけである。

 精神系疾患や障害に対する多くの実薬は、簡潔に言えば、神経細胞間の伝達を抑制或いは促進し、情緒を調節するものである。読書時だけでなく、読後の余韻にある時、期待しつつ次の本を選ぶ時など、読書には付帯的な作用がある。これら状態にある時、分子動態的に脳がどのような状況にあるのかはわからぬが、前向きな意識や内省など、より統合的な状態にあるように思われる。このような読書であるから、例えば、読書を恒常的に習慣とする者は、そうでない者に比べて気分障害の発生率が少ないのではないかと想像したりもする(このような事を調査をした論文等があれば、ぜひ読んでみたいわけである)。

 (以上の観点からすると、図書館は巨大な薬局ということになる。原則負担もなく、自分で薬を選択でき、一つの薬が終わったら次の薬へと、より良い薬を自由に求めることができる、風変わりな薬局である。)

 

さて、忙しさの中、これではいかぬと思いつつも、最近は読書もついついおざなりである。一息ついたら、帝国脳病院を舞台にした「楡家の人びと」を久しぶりに読み返してみるのも良さそうである。

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