今昔1 (34)

  名古屋の中心である栄から地下鉄東山線を東に3駅行ったところに、今池がある。「盛り場ブルース」の 栄、今池、広小路〜に出てくる今池である。地下鉄今池駅の北方面出口を出ると、少し変わった道が東北東に伸びているのがわかる。その道は歩道のような路側帯部分が、車道より広く、50センチほど高い段になっている。地元では、水道みちと呼ばれていて、地下には、道の始点にある東山給水塔から、名古屋の中心に水を運ぶ水道管が敷設されているという。段となった部分には桜が植えられ、毎年、季節になると地元民の目を楽しませている。

  その水道みちの始点付近が、小学生時代の遊びのフィールドであった。先に書いた東山給水塔は、丘陵地上にある38メートル程の、巨大なキノコ(ツバが開いていない状態)状構築物であり、夏などその茶色い屋根とツタに覆われた緑の胴部が、巨大でありながらどこか妖精の国のような、異世界感を醸し出している。地元のシンボルのようなもので、現在では名古屋市都市景観重要建築物に指定され、年に数回公開されている。ちなみに自分としては、西側からの風景よりも、給水塔の背後を走る姫ヶ池通りを北から南下し、最高地点となる歩道橋の右にそそり立つ、夕日に染まった給水塔が、インパクト、美しさともに一番であると考えている。

  その給水塔がある丘の手前に、道を挟んで小山があった。現在は北面にジグザクのマンションが建てられているが、当時は、クヌギやブナが生い茂る森で、仲間の間では、「どんぐり山」と呼ばれていた。夏休みなどクワガタやカナブンを採りにいったものである。どんぐり山と給水塔の丘を隔てる細い道は、南に向かって上り坂となっており、山頂部に至る少し手前の山側に、お堂のようなものが見てとれる。小坊(縁 (26))の自分にとっては、お堂よりも入り口の両脇にある、古代中国の文官のような石像が印象的であり、いつも石像の間を緊張しながら通ったものである。そして、参道やお堂の周囲には、樹液を出したクヌギが多くあり、甲虫の絶好の採集場所になっていたわけである。

  その後調べてみると、件のお堂は、「鉈薬師」というものであり、明国の帰化人の張振甫という人物が、他の場所にあった薬師堂を、尾張藩の援助を受けて同地に移設したものであり、堂内には薬師如来像や円空仏が祀られているということであった。確かに、一度開放されている時に入堂し、裂いた木にそのまま目鼻をつけたような仏像らしきものがあったのを覚えている。

  先の坂道は中々の勾配、高低差であり、採集を終え坂道を登りきると、いつも一息ついていた。そして、両脇に住居が並ぶ頂上の平坦な道を南に進むと、突如左手に大きな下り坂が現れる。当時その坂道は、舗装されておらず、道路を作るために削ったような剥き出しの山肌であり、結構な勾配の坂道を、兄や友人らと声を上げながら駆け下りていったものである。

  坂道を降り切った所には、放生池という池があった。江戸時代からあった西どろあき池というのを、その後放生池としたようであるが、当時の放生池は結構大きく、初めて行った頃は、貸しボート屋などもあったように思う。池のほとりには、「殺生禁断 放生池」と刻んだ結構大きな石碑が立てられていたが、週末など多くの釣り客が出て、市民の憩いの場となっていた。そこで兄や自分達は、時折水遊びをしていたわけである。

  池に至る坂の左手に大きなマンションが建てられると、年々、池の周囲が埋め立てられてゆき、ある年、完全に更地となってしまった。あれからもう三十年以上の年月が経つが、帰郷したおり、横を通ると建物が立つこともなく、埋め立てられた当時のままであることに驚く(ちなみに姫ヶ池上という番地が付き、一応、駐車場として使用されることもあるようである)。

  埋め立てた経緯は不明であるが、池には、タナゴやヨシノボリ等が生息し、ヤゴや水生昆虫も豊富で、水鳥も訪れていたので、水辺を整備し、茶屋など建てて、人々が憩う水際公園として生かす道はなかったのか などと思うわけである。ちなみに山から放生池に至る坂道は、現在では、姫ヶ池通りから山を超え、水道みち方面へと連結する立派な自動車道となっている。(つづく)

(水道みち 東山給水塔 鉈薬師 名古屋 放生池)

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