主役 (51)

今回は、本来、主役でないものが主役になるという話である。

  自分が少しだけ滞在した大学の、もう引退された先生の話である。彼は若い頃、植物ホルモンのオーキシンの研究をしていた。当時はまだ純度の高い標品を安価に手に入れることができず、自分で精製していたそうで、そのやり方が豪快であった。

  オーキシンは、主に茎の先端部など、植物の成長著しい部分で生産されるが、彼は、缶詰工場に行き、大量のタケノコの煮汁をもらってきて、そこから件の物質を精製していたのである。普通なら成長の良い植物を集めて、植物体から抽出、精製となりそうであるが(現在なら、化学合成物ということであろうか)、煮汁という本来脇役にもならぬものが、主役となった所に感心した次第である。

  もう一つは、知人の後輩の話である。彼は以前、アカガイ(Anadara broughtonii)に含まれる呼吸色素、エリスロクルオリンの鉄ポルフィリンの構造変化を研究していたことがあった。アカガイは貝であるにもかかわらず、赤い血液を持ち、その色の元となるのが先の色素であるわけである。

  当然、構造解析にはまとまった量の血液を必要とした(今、それほどでも無いようであるが)。一個のアカガイからとれる血液など微々たるものであり、目的の量の血液を集めようとすると、安価では無いアカガイを大量に必要とした。

  そこで実際には、彼は、アカガイよりも遥かに安価で、同じ色素を持つサルボウガイ(Anadara kagoshimensis) を使用していたのである。ちなみに、甘辛く煮た身の入った、いわゆる巷に出回っている「赤貝の缶詰」と言われるもののほとんどは、このサルボウガイを使用している。

   後輩は、来る日も来る日も、魚市場から調達した大量のサルボウガイを剥き、そのわずかな血液を必死に集めていたわけであるが、当然、血液を取った後に、大量の身が残る。サルボウガイは缶詰になるように、ちゃんとした食材なので、当初は研究室の仲間と寿司にしたり、煮付けにしたりして大いに楽しんだそうである。

  しかし、それも一ヶ月ほどが限度で、そのうち薦めても誰も手をつけなくなり、やがて見向きもされなくなったそうである。それ以降、生ごみとなったのか、肥料となったのかは知らぬが、幸いなことに彼の研究自体は無事結果が出たそうである。

この経験は彼の人生に影を落とし(少し大げさである)、以来、彼は、寿司店に行っても、アカガイを注文することは無いという話であった。