火星-紙 (85)

火星の居住ミッションが順調に進み、居住コロニーが増加し、コミュニティーのようなものが形成されて行った時、一つの疑問が湧き上がる。そのコミュニティーに紙の文化は存在するのかということである。

 勿論、タブレット端末のようなものが、情報伝達に使われるであろうことは普通であるとして、将来的に、フィルムのようなより薄くて柔軟性のある素材がそれらに使われるであろう事は十分想像できるわけである。

 しかし、折り畳みがきくフィルムのようなデバイスに、さらにソーラーセルのような機能が付随し、それらに、書籍、新聞、チラシ、伝言等の機能が移行する事があるとしても、紙文化も残るのではないかと自分には思われる。それは、少なくとも生活や社会維持に必要な2種類の紙類が存在する事による。

 その一つは、トイレットペーパーやペーパータオルのような、拭きとりや吸いとり用の紙類である。ちなみに、無重力ISS(国際宇宙ステーション)のトイレは吸引式であるが、使用後、人体側の汚れは、それ用の紙で拭き取ることになる(水が貴重で空中に飛散しやすいISSでは、当然湯水洗浄便座などはない訳である)。その他、船内で発生した水分を拭き取るペーパータオルなど、すべての紙類は、補給船により地球から運ばれている。紙以外の物でこれを代用しようとすれば、今の所、よりかさ張る布のようなものということになる。

 そして、もう一つは、ダンボール或いはその同等品である。東京オリンピックではダンボールベットが有名となったが、同紙類は輸送容器、保存容器の材料、梱包材として現代社会には無くてはならないものである。仮に現代社会からダンボール類を除去すると、物資の輸送は遅滞し、物流が機能不全を起こす可能性があるのではないだろうか。家庭やオフィス、倉庫、工場など至る所において、物品に対する可塑性のある非離散空間を提供しているのがダンボール類である(可塑性のあるとは、内在する物資、物品の使用消失によって、素材を簡便に原料として循環系(リサイクル)に戻すことができる状況を述べている)。

 仮にダンボール類が使用できないとすると、輸送や保存には樹脂、プラスティック、木材のようなものが使用されると考えられるが、後に述べるように、これらは火星においては紙類よりもさらに調達が困難なものである。では、未来の火星コミュニティーや火星社会に、このような紙類の文化が継承される場合、どのような状況が想定できるであろうか。

 

 紙の原料は、木材や草本等に含まれる植物繊維を機械的、化学的に抽出したパルプである。もし、火星において、紙類を流通させるならば、紙かパルプを地球から輸送するか、パルプを現地で生産し、製紙する必要がある。地球から近い距離にあり、少人数しか滞在しないISSにおいては、地球から紙自体を補給することは有効である。しかし、遥かに遠く、人数も多い火星においては、初期は補給に頼らざるを得ないとしても、火星社会の成熟に連れて、輸送から現地生産へ移行するのは、ごく普通の流れであるように思われる。

 では、火星においてどのようにパルプを生産するのか、ということになる。パルプの原料となる植物を育成するというのは、何らかのテラフォーミングが成功した未来の火星においては可能かもしれない。しかし、気密コロニーやドーム状の都市の段階においては、パルプ用に植物を育成するというのは、現実的ではないように思われる。そこで、一つの可能性として考慮されるのが、菌類によるパルプ(キノコパルプ)の生産である。

 近年、キノコ(マッシュルーム等)の子実体等から、機械的、化学的処理により、容易にグルカン-キチンベースのパルプが調整でき、同パルプから紙類を製造できることが示されている(1-3)(使用目的に応じた紙類の強度、柔軟性については、繊維の長さや漉き方、添加物により調整が可能であり、今後の検討が待たれるところである)。このような菌類の加工プラントを併設すれば、植物よりも遥かに短期間に、火星においても持続的に紙類を製造できる可能性がある。

        

                        (図1. 火星におけるキノコを用いた紙類、その他の製造)

 

 図1には、そのような火星におけるキノコ利用の概要が示されている。種菌由来の菌糸体は、培養基材を用いて子実体(キノコ)の栽培に用いられる(a)。子実体は食材として流通し(b)、利用されなかった部分(足等)は、それ以外の子実体とともにパルプ製造に用いられる(c、d)。一方、タンク等で液体培養された菌糸体は(e)、パルプ原料の主要ルートになる可能性がある(f)。

 子実体や菌糸体の機械的処理や化学的処理(アルカリ処理、漂白処理など)で得られたパルプは、多様な紙類の製造に使われる(g)。そして使用された紙類で可能なものは、古紙パルプの再生ルートに統合され(h)、ダンボールのリサイクル経路に入ることとなる(i)。また、パルプや使用済みの紙類の一部は、糖化、発酵を経てエタノールの生産に使用されるルートも想定できる(j、k)。したがって、キノコプラントによって、火星社会に、少なくとも紙類、食材、エタノールを供給できる可能性がある。

 さて、文化的生活を送るならば、未来の火星においても紙類は必要であり、それは初期の地球からの補給過程から、自足的なキノコパルプ、キノコペーパーの段階に移行するのが、スムーズな接続であるように思われる。さらに、水稲陸稲の栽培が可能となれば、将来的に稲藁を用いたワラパルプによる紙類の製造も可能になる可能性がある(米を自足したい日本人的発想ではある)。

 

インジェニュイティ(Ingenuity)は、NASAの火星ミッションの一環として運用されているロボットヘリコプターである。パーサヴィアランスから離脱した同機が、火星の地において見事に飛び上がり飛行しているのを、ニュース等で見た方も多いのではないだろうか。同機の飛行は、同機が発生する揚力と、火星環境(地球の0.7%程の大気、4割程の重力)とのバランスにおいて成り立つと考えられるが、自分は、同映像を見たとき、紙飛行機はどのようになるのかと思ったことを覚えている。このことを知るためにも、やはり火星には紙が必要なわけである。

 

1.ACS Sustainable Chem. Eng. 2019 7: 6492-6496.

2.Biomacromolecules. 2019 20(9):3513-3523.

3.Int J Biol Macromol.2020 148:677-687.