茶色い (1)

 当時、自分は院生として大学の附置研究所に通っていた。自分の所属する研究室の隣の研究室にY先輩がいた。Y先輩は背の高いすらっとしたイケメンで、物腰の柔らかい人物であった。隣の研究室の休憩室兼ロッカー室は出入りが自由で、自分も一息着くときなどよく利用しており、Y先輩と一緒になることがあった。

 梅雨入りで長雨の続くある日のことである。Y先輩は当日の仕事が終わって帰宅するところであった。ロッカーで用事を済ました後、すぐ部屋を出ず、流しで何かごそごそしている。よく見ると清涼飲料水か烏龍茶が入っていたであろう2Lほどのボトルに水道水を詰めている。ボトルが一杯になると蓋を閉め、彼は少しばつが悪そうな感じで出て行ったのである。アパートか下宿に帰れば水などいくらでも手に入るであろうし、不思議な行為であった。何日かして再び同じ行為を目撃した時、意を決して聞いてみた。「どうして水なんか持って帰るんですか」と。そこには切実な問題があったのである。

 研究所は、北側のこんもりした森を背に建っており、その森を越えると開けて別の市になる。開けてと言っても、当時は田んぼの中にポツンポツンと建物が建っている程度で、コンビニなども無く、本当に郊外という感じであった。そしてその森を抜けた所にM寮があった。研究所に近いということもあって、そのM寮には研究所の院生が多く住んでおり、Y先輩もその1人であった。Y先輩が語るには、M寮の水は、普段は飲水として問題無いものの、どうやら井戸の汲み上げ水らしく、この季節、長雨が続くと、湯船に落とした十円玉が見えないほど茶色く濁る、そのような時は流石に気持ち悪いので、夜間の飲み水として水道水を確保しているとのことであった。

 自分はM寮に至る道を何度か通ったことがある。森を越えるとなだらかな下り坂となり、ほどなく、左側斜面に古い墓地が現れる。その斜面を降り切った墓地の端にM寮があるのである。一帯は赤土のむき出しで雨が続けば、斜面に沿って濁流が流れ落ちる状況は容易に想像できた。そして、Y先輩の話を聞いた当時、長雨が墓を叩く内に、古く割れた骨壷のお骨を洗った雨水が濁流と合流し、井戸水にカルシウム分を加えていたかもしれないと、少しオカルティックな想像をしたものである。

 M寮はもうない。一帯は、開発されて、スーパーやマンションが林立し、垢抜けた郊外に変貌しつつある。今は、研究所から峠の森を越える細い道がわずかに当時の面影を残すのみである。