移動式 (56)

   先日、食料の買い出しに出かけた時のことである。帰り道で、左方を確認していると、助手席の窓の上の方に、枯れた小さな葉のようなものが付いているのに気づいた。帰宅し、車を降りて、助手席側に廻って見てみると、それは窓に付着した葉っぱではなく、ドアの雨避け(プラスチックのヒサシのような部分)の端からのびる、細いトックリのようなものであった。

  下から覗き込んでハタと気が付いた。少数ながらハニカム構造が見えたからである。そう、それはハチの巣であったのである。部屋は〜8室ほどで、途中で放棄したものか、すでに建築を終了したものかはわからぬが、よくこんな所に巣を作ったものだとびっくりした次第である。そのうち脱落するであろうし、助手席のドアを開けることもあまりないので、そのまま放っておくことにした

  ということで、その日以来、自動車を発進する前に、ドアの小さなハチの巣を確認する事が習慣となった。発見日から、雨の日も何度かあったが、意外にも吹き飛ばされもせず、乗車時はいつも確認することができた( 雨避けの内側に作れば風雨もある程度防げるのに、エッジにあるため直接風を受け、集めた雨粒により水浸しになることも頻繁にあるわけである)。

  そのような状況が続いたある日のことである。いつものように、エンジン始動の前に巣を見ると、巣の上に影がある。巣のシルエットの上の方が心持ち以前よりも膨らんでいるわけである。これはひょっとしてと思い、車を降り、助手席側に廻って見ると、やはり巣の上に一匹のハチがとまっていた。これはめでたい、雨ざらしでとっくにダメになっていると思っていたが、なんと一匹羽化したようである。後は、身体が堅くなったらそのうち巣立っていくだろう などと、小さき生命の誕生に少し感激したわけであるが、実際はもっと複雑な事態にあることを知ることになる。

  巣の上のハチは翌日には居なくなったが、その三四日後のことである。車に乗る前に、巣を確認すると、なんと4匹ものハチがたむろしていたのである。数日の間に他の穴も羽化したのかと思ったが、様子を見ると羽化後の待機状態のようには見えない。どれも、せわしなく動き、巣が少し大きくなっているのである。最初の1匹は羽化した個体の可能性があるが、その4匹は、巣の作製を続行しているように見えた。

  この事態を受けて、自分の行動様式、正確には運転様式が変化することとなった。走行中に巣が千切れて後続車に潰されるというのは、最も避けるべきパターンなので、やはり速度を落とさざる得なくなる。時速50kmを超えると、空気の流れにより巣が振動を始め、ハチたちも必死にしがみついているので、時速45km以下で走ることになる(後続車にとっては迷惑であろうが)。雨の日は、水分によって巣と雨避けの結合部が柔らかくなるのか、巣が車体と平行になびき、いつ千切れてもおかしくない状況になるので、さらに速度を下げることになるわけである。

  ちなみに、このハチは、腹部背面上部に、蛍光塗料のような薄い黄緑色の2つの班が特徴的な、フタモンアシナガバチ(Polistes chinensis)である事がその後判明している。

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  今回の件でハチの行動に関して幾つかの疑問点が湧き上がったので、その事について少し述べてみたい。1つは、好適な場所が他に幾らでもあるだろうに、このような場所に、巣を作った理由である。

  フタモンアシナガバチに限らず、ハチはどのようにして、巣を作る場所を決めているのかという問題がある。1つの考えとしては、ミツバチのように集団が大きい場合、野生の分封において、女王蜂が動く前に巣の場所を決める、ポインターのような存在がいるのではないかということである。そのポインターが、日射、湿度、温度、臭いなどの環境要素が、前巣と近似した場所を選んでいると考えることもできるが、実態は不明である。

  フタモンアシナガバチポインターのような存在がいるのかどうかはわからぬが、個体が車のドアの雨避けにポイントした理由に興味が湧く。風通しがよく、周りに植物や土がなく、ある意味、微生物の侵害を受けにくい清浄地であると言える。フタモンアシナガハチは、ヒトの存在や脅威を認知しており、敢えてヒトの近辺に巣を作ることにより、天敵や捕食動物からの脅威を軽減しているという考え方もできるがどうであろう。単に、偶然という可能性もある。しかし、不思議なのは、何度も、雨水で水浸しなり、走行で千切れそうになっているにもかかわらず、巣を放棄する気配が一向にないことである。

  もう1つ。以前、スーパーの駐車場に着いた時は、いつもの4匹であったのが、用事を済ませて戻ると、2匹しかいないことがあった。巣の材料の調達、或いは摂食で飛びさった可能性があるが、ハチが戻るまで待つわけにはいかないので、少し後ろめたさを感じながら、帰宅したことがあった。その後、数日は、2匹で作業をしていたが、ある時から4匹に戻ったのである(それは現在まで続いている)。これには2つの解釈が可能である。

  そのスーパーは、巣とは初めて行く場所であり、自宅からは数キロ離れていたが、その加わった2匹が以前と同じ個体であるとすると、その距離をもろともせず、何らかの手段によって、駐車場にある車と巣を見つけ出し、帰巣したというものである。もう1つは、加わった個体は以前とは異なる個体であり、新たに巣の作製、運営に参加したというものである。この場合、巣に個体が集まることによって、フタモン独自の臭い分子(フェロモンのような分子であろうか)の濃度が高くなり、それに惹きつけられて新たな個体が寄ってきた、或いは餌場などに生殖コミュニティのようなものがあり、(スカウト)されてきた という経緯も考えられる。

  個体の集合による種独自の臭い分子の局所的濃度上昇という考えは、先の同一個体が帰巣する手段としても適用可能であり、的を得ているかもしれない。また、自分の車の巣では、女王蜂のような存在が、単独で巣造りや世話をしておらず、常に4匹で作業をしている。この辺の子孫形成関連活動に関しては、画一的なものではなく、状況に応じたフレキシビリティのあるものである 可能性がある。

  さて、人からすれば、車にハチの巣が付いているだけであるが、ハチからすれば、巣が(動くものに付いており)頻繁に移動するということになる。そのような事態は、フタモンアシナガバチにとってまず無いことである(4匹は、極めて稀な経験をしているわけである)。天気の良い日などは、羽根に風を受けて、移動を楽しんでいるようにさえ見える。ハチからすれば、こちらは運び屋のような存在ということになる。運び屋として、この移動式ハチの巣の行く末を見届けようと思う自分がいるわけである。

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