変身 (49)

  以前、怪奇小説の話を書いた(願望(38))。欧米には怪奇小説の短編の名作が多く、ウィリアム・ホープ・ホジスン(William Hope Hodgson)の「夜の声」(The Voice in the Night)も好きな作品の1つである。ご存知の方もいると思うが、この短編はあの昭和期の怪奇映画「マタンゴ」の原作となった作品である。と書くと小説の内容も、察しがつくわけであるが、若年であった自分にとって、VFXとかSFXが登場する前に作られたこの映画は、初見以来ずっと印象に残っている邦画の1つであり、たまに放送があるとつい時間を割いて見てしまうわけである。

  映画では、ヨットで海に繰り出した一行が嵐に会う。無人島に漂着し、かろうじて生き残ったヨットの面々は、島での生活を始めることになる。一般に、こういう漂着物(もの)では、手分けをして磯の魚介を採ったり、動物を捕獲したりして飢えをしのぐことになる。「ソウナンですか?」の鬼島ほまれや、千空のような人物がいれば、何とかなったかもしれないが、そのような調達も上手くいかず、やがて食料に窮するようになる。そして飢えから、一部の者が其処此処に自生しているキノコに手を出すことになる。そのキノコはすこぶる美味であり、一人また一人とキノコを食べ始めると、いつしか遭難者は減っていき、そこには怪しく蠢く巨大な何かが・

  島への漂着は、社会構造や社会ルールからの予期せぬ脱出、解放ともとれる。しかし、解放されても人間であることに変わりはない。人間であれば、ひもじくもなれば、思い悩みもする。そしてこの作品では、その解放された状況を更に推し進めて、その人間でさえも無くなる状況が訪れる。よく、鳥になって大空を飛びたい、というフレーズを耳にすることがあるが、ヒトとして生きてきたのに、動物でさえなくなってしまうわけである。多くの者にとってそれは自我の喪失という点で恐怖であるかもしれない。一方、社会が苦痛でしかない者には、穏やかで苦痛のない自死を連想させる可能性がある。

  「マタンゴ」を長らく魅力的な映像作品としてきた一番の理由は、変身する対象がキノコであるという点に他ならない。キノコには、可愛い、美味しい、森の妖精など、人にとって好ましい印象があると同時に、毒、日陰、湿度など負の印象もある。このような複雑な要素を持つキノコであるから、マタンゴ(怪人)とて、にわかに敵或いは恐怖の対象と断定できず、そのような揺れ動く心象をもたらす所に、この作品の魅力があるように思うわけである。

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  前述したように、島のキノコは美味であり、キノコを口にした者が「美味しい〜」と言う場面がある。では生食して美味しいキノコが実際に存在するのかという点である。栽培したマッシュルームは生食可能であるが、淡白であり、うまくもまずくもないと言った所である。シイタケやノウタケなどは旨味成分が多いが、やはり調理した方が格段にうまい。カンゾウタケなどは酸味を持つが、食べ方によっては美味しいと感じるかもしれない。

  果物や野菜に限らず、ご飯や刺身なども、美味しいと言ったとき、甘味を1つの要素としている場合が多い。しかし、自分の経験や情報では、甘いキノコなどは存在しない(もしご存知の方がいれば、ご連絡頂ければと思う次第である)。植物の本体や樹液に含まれる糖分は光合成に由来するものなので、光合成するキノコがあれば、それは甘く美味しくなる可能性があるが、独立栄養となり、それはもはやキノコとはいえないような気もする。

  映画では、風月堂が作ったキノコ型の蒸し菓子を撮影に使用していたが、出演者の助言で砂糖を加えた所、味気なかったものが、大層美味しく成ったという逸話がある。したがって、遭難者が食していたマタンゴ(の幼菌)は、実際、甘かったわけである。将来的には、遺伝子工学による品種改良で、甘み呈すキノコが登場するような気もするわけである

  さて、映画「マタンゴ」のヒロインである水野久美氏や、映画で生還を果たした青年科学者役の久保明氏は現在もご壮健のようである。

例えば、生還を果たした青年科学者の手記ないし情報が、後年ネットに出回り、それを目にした冒険者や化学者(生物学的に貴重な材料としてマタンゴの回収を目論む)、女性芸能人(自死志願者でもある)等からなる一行が調査船に乗り込み、それぞれの思惑持ちながらマタンゴ島を目指した顛末を描く(異論があるかもしれないが) というような続編や、同映画のリメークを作り、是非、お二人に出演して頂くというのはどうであろうか。

「恐怖の岬」のグレゴリー・ペックロバート・ミッチャムが「ケープ・フィアー」に出演したように、お二人が出演した令和の「マタンゴ」を見たいわけである。